Happy Unbirthday Songs

hokkaido→tokyo/tsukuba→moscow

ドラン監督すごすぎだろ、と言いたい。

小学生の頃、周りの女の子たちがピンク色のシャツやフリルのスカートを身にまとう中で、私は男物の服ばかり着ていた。女の子らしい服が嫌いだったわけではなく、ただ親の趣味だったと思う。骸骨が描かれたパーカーやぶかぶかでダメージの入ったジーンズを着こなすうちに、私は「女子」として自分を認識するのが周囲よりだいぶ遅くなった。髪を長くしたこともなかった。

大学4年のときの飲み会で隣席になった男の子は、「女装バーでアルバイトしたい」と私に言った。端正な顔をしていて実際女の子にすごく人気がある人だった。私は話を聞きながら、彼のふわふわの長い髪の毛、細い腕、キメの細かい肌に見とれていた。女装しても彼はきっと素敵だろうと心から思った。私はもうその頃はメイクやアクセサリーに目覚めていて、男っぽい恰好をしたいとは思っていなかった。

 

性の境界なんて曖昧で、どんな服を着てもいいのだ、と頭では思う。でも身近なところに異性装を実行している友人はいなかった、もしくは気づかなかった。女装をしているタレントがテレビに出ているのを眺めていたり、女装しているおじさんをたまに地下鉄で見て、どきっとしているだけだった。正直、他人事だった。

でももしパートナーにある日突然、「性を変えたい」と打ち明けられたらどうするだろうか。女装した「彼」と、メイクやファッションの話をしたり、手をつないでデートしたり、友達に堂々と紹介できるだろうか。私はちっぽけな自分を捨てきれない気がする。周囲の目を気にしたり、パートナーに対し知らず知らずに男性像を押し付けてしまう自分だ。

 

1989年のモントリオール。高校の国語教師をするロランス(メルヴィル・プポー)は、撮影の仕事に励む情熱的な女性、フレッド(スザンヌ・クレマン)と深く愛し合っていた。だがあるときロランスは、「間違った性で生まれてきた、これからは女性として生きたい」とフレッドに打ち明ける。「これまでの2人の時間は嘘だったのか」と動揺するフレッド。彼女は悩みぬいた末、ロランスの女性としての生き方に協力しようと決意する。

この映画で印象的なことの一つ、それは見知らぬ人々の目、目、目だ。冒頭シーンでは、無表情で、冷たく、異質なものをみるような人々の眼差しに引き込まれる。女装をして初めて教壇に立ったとき、ヒールを鳴らして学校の廊下を歩くとき、レストランやバーに入るとき、好奇と驚きが入り乱れた人々の注目を、ロランスは一身にあつめる。女性デビューを果たしたロランスを応援するフレッドだったが、ある日二人で食事をしていたとき、ウェイトレスのロランスに対する無神経な態度を目の当たりにし、彼女の中で何かが完全に切れてしまう。

フレッドは必死だった。ロランスを愛している、でも自分が愛しているのは男性としてのロランスだった。ロランスは「夫と家庭」がもたらす幸せなんて幻想だと主張する。他の誰よりも愛しているのに、2人の求めるもののずれが露わになっていくのが見ていて辛い。別れて、また会って、それからまた別れて、季節が巡る。思い出を何度も何度も拭って、それでも互いを忘れられない。

ただし映画全体に溢れているのは、悲壮感ではない。衣装に音楽にカメラワークに、ハッと息を呑むような美しさ、繊細さ、大胆さ、ユーモアが散りばめられている。部屋で涙しながら大量の水を頭上から振りかぶったり、二人が歩く青空の日には、色とりどりの洋服たちが無数に降ってきたり。現実離れしたような仕掛けがあることで、画面のスケール感、物語のテンポ感がガラリと変わる。映画にはこんなことができるのか。若干23歳でこの作品を撮ったドラン監督の才能に嫉妬する。

 

『わたしはロランス』

監督:グザヴィエ・ドラン

出演:メルヴィル・プポースザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ

製作:2012年(カナダ、フランス)