読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Happy Unbirthday Songs

hokkaido→tokyo/tsukuba→moscow

目覚まし時計を7時半にセットしたにもかかわらず、そのままずるずると1時間くらい寝てしまった。窓から見える空は今日も曇っている。レバーペーストを塗ったバケットを食いちぎりながら、メールチェック。

 

今日の午後にある、ロシアン・アヴァンギャルドについての授業の予習に追われる。マヤコフスキー、ゴンチャロヴァ、タトリン。特に、マヤコフスキーの才能を見出した、ブルリュークマヤコフスキーのやりとりが気に入った。このブルリュークという人が、ロシア未来派の父ともいえる人で、マヤコフスキーが詩を本格的に書く前からいろいろな人に彼の才能についてふれまわり、まさにマヤコフスキーを詩人に「した」。彼自身も顔にペイントしたり、へんてこなファッションで町を歩いたりして、日常生活そのもの、人の顔そのものでさえ芸術になりうるのだと考えていたという。

 

結局、単語の意味を調べるだけで予習は精いっぱいだったけれど、おかげで午後の授業にはなんとかついていくことができた。スライドで見せられる作品の一つ一つ、アヴァンギャルドの芸術家たちの作ったポスター、写真、建築、衣服、ティーセット、すべてが興味を惹きつける。こうした土台や文脈があって、ロシアの現代アートにも影響しているとしたら、なんだかそれはすごく面白いんじゃないかと思う。

 

今日は、何も手を動かしていないときの気分の落ち込みがすさまじかった。最近、インタグラムに頻繁に投稿したり、Facebooktwitterをチェックしたりしているのは、時間をもてあそんでいるというのとはなんか違って、たぶん、新しい出会いを求めているという証拠なのだと思う。私はいつも、今の自分がいる場所に違和感を感じている。それは物理的な場所というよりも、自分自身が世界に対してどのように開かれているか、その在りかたをめぐる違和感である気がする。

最近は自分にすぐ飽きるし、根拠もなく周囲にイライラしてしまうことがある。でもいつもがそうな訳ではなくて、びっくりするくらい、自分と周囲が気持ちよいハーモニーを奏でる一日もある。

 

気持ちが落ちてくると、周囲の人が自分を責めているんじゃないかという気持ちになるし、どのように人と接すればよいのか、身体のどこをどのように動かして、どのように言葉を選ぶべきなのかが全然わからない。

長い間自分が抱えていること、それは自分の専門性、一貫性のなさだとか、将来の不確定さだとか、そういう私の曖昧な部分を、私の中の声たちが一斉に非難してくるのだ。「あの人を見ろ」と。彼・彼女たちは、意志を持ち、一つの道を究めているじゃないかと。やりたいことを知っていて、それに向って努力している。それがおまえには無いじゃないかと。

 

でも私はもう、「統合された私」というものは諦めかけている。どうしようもなく飽きやすいし、やりたくないことを我慢できない。我慢しても、すぐに(文字どおり)泣き出す。涙が流れることは、一つのセンサーになっている。完全に子どもだと思う。

でも、こうも思う。子どもである私は、子どもなりに、サヴァイヴしなければならないのだ。そのときに出会ったものに、必死でくらいついて、少しでも自分が納得するいい形にして、人の只中に飛び込んで、自信をつけていくしかない。今年の春学期、人類学の調査法の授業で私はそれを学んだ。

 

何の話かわからなくなってきているけれど。

自分の腹の底に、それはしっかり落ちているか?という問いに、できるだけイエスと答えたい。今は落ちてきていない。だからもがいている。もやもやもやもやしている。思い切りが足りない。